京都地方裁判所 平成2年(行ウ)7号 判決 1992年11月30日
原告
豊田信子こと
朴信愛
右訴訟代理人弁護士
安保嘉博
被告
京都上労働基準監督署長
木村茂
右指定代理人
井越登茂子
主文
一 被告が原告に対し、昭和六一年二月三日付でした労働者災害補償保険法による休業補償給付三件及び療養補償給付一件の各不支給処分(但し、昭和五八年一〇月二八日以前の休業補償給付の不支給処分を除く)を取り消す。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告が原告に対し、昭和六一年二月三日付でした労働者災害補償保険法による休業補償給付三件及び療養補償給付一件の各不支給処分を取り消す。
第二事案の概要
一請求の類型(訴訟物)
本件は、労働者災害補償保険法(労災法という)による保険給付不支給処分の取消訴訟である。
二前提事実(争いがない事実)
原告は、昭和五五年六月二八日午前一一時四五分ころ、亡豊田成吉(成吉という)経営の京都市左京区一乗寺払殿町二八番地所在の豊田染工場(本件会社という)の染工場二階において、型枠、米等を簡易リフトに積み込んで一階に降ろそうとした。そのとき、リフトのワイヤーが切れて一階に転落する事故(本件事故という)にあい、右手挫滅切断創、右第一、二、三、四、五中手骨骨折、左第一楔状骨骨折等の傷害(本件傷害という)を負い、その後右手全手指を切断するに至った。
原告は、本件事故について、労災法に基づき、被告に対し、昭和六〇年一〇月二九日に昭和五八年一〇月一日から昭和六〇年九月三〇日までの休業補償給付の請求を、同年一一月一二日に療養補償給付の請求を、同年一二月一八日に同年一一月一日から同月三〇日までの休業補償給付の請求を、同年一一月一二日に療養補償給付の請求を、同年一二月一八日に同年一一月一日から同月三〇日までの休業補償の請求を、昭和六一年一月一六日に昭和六〇年一二月一日から同月三一日までの休業補償の請求をした。被告は、これに対し、昭和六一年二月三日、原告は労働者でないとして、右各請求につき、不支給処分をした。
三争点
原告は、労災法上の労働者に該当するか。
四争点に関する当事者の主張
1 被告
労災法上の労働者とは、使用者と労働契約を締結し、その指揮命令の下に労働力を提供し、その対価として賃金が支払われる者をいい、使用従属関係の存在と賃金の支給が要件となる。
原告は、本件会社の経営者成吉の長男正雄の妻として、使用者の家族の一員たる立場で仕事の手伝いをするようになったもので、成吉との間に、明示的にも黙示的にも労働契約は締結されていない。
原告の主な仕事は、従業員の食事の世話等の賄いとミシン掛けであり、いずれも使用者の家族の一員としての手伝いにすぎない。
出勤時間は不規則で、勤務時間も一定でなく、他の従業員と勤務形態は明らかに異なっており、使用者の指揮命令に服していたとは認められない。
賃金額の算定根拠も増額の理由も不明であり、仕事の内容も異なるのに、ミシン掛けのみしていた大城海子と同額というのも不合理である。
欠勤しても減額されず、残業手当もなく、定額であって、労働の対価としての賃金の給付とは認められない。
2 原告
原告は、本件事故当時、成吉の家族とは別居し、生計も別であり、成吉との間で、ミシン掛け、賄い等の労働に服することを内容とする労働契約を結んでいた。
原告は、蒸工場の従業員の朝食と染工場の従業員の夕食を準備し、オートスクリーン導入後必要とされた一日当たり二〇〇疋の反物を縫い合わせるミシン掛けの作業に従事していた。これは、使用者の家族の一員として単に手伝いをしていた程度の仕事ではない。
勤務時間や出勤時間が他の従業員と異なっていたのは、蒸工場と染工場の双方で働き、賄いという特別の仕事をしていたためであり、当然使用者の指揮監督は受けていた。
同じミシン掛けの仕事に従事していた大城と同額の賃金を支給されていたもので、労働の対価であることは明らかである。
第三争点に対する判断
一事実の認定
証拠(<書証番号略>、証人大本悟、同佐藤武博、原告)、弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 本件会社は、本件事故当時、原告の夫正雄の父成吉が経営していた個人企業で、工場は、京都市左京区一乗寺払殿町二八番地に所在する染工場と、同区一乗寺大原田町四六番地に所在する蒸工場に分かれていた。
従業員数は、染工場が約一八名、蒸工場が約一二名の合計約三〇名である。うち住込従業員は七名で、染工場三階の宿舎に住んでいた。
染工場の責任者は大本悟で、蒸工場の責任者は成吉の長男である正雄であった。
(二) 原告は、昭和二九年二月二八日、右正雄と結婚し、当時本件会社のあった京都市左京区一乗寺原田町二三番地の敷地内に、成吉の家族と共に住み、生計も同一であった。
しかし、昭和三二年ころ、成吉の家族は染工場の場所に、原告夫婦は子供らと共に蒸工場にそれぞれ転居して別居し、以後本件事故当時も、別々の生計を営んでいた。
(三) 原告は、昭和三九年ころから、住込従業員の朝夕の食事の賄いを行うようになり、成吉から月額三万円の支給を受け、昭和四七年には、月額五万円に増額された。
(四) 本件会社では、昭和五二年一二月、オートスクリーンを二台導入して機械化を図り、そのため前提作業として、一日当たり二〇〇疋の白生地を二人組みで縫い合わせるミシン掛けの作業が必要になった。原告は、成吉から頼まれ、昭和五三年から、大城海子と共に右作業に従事した。
そして、原告は、成吉から大城と同額の月額一〇万円の給与の支給を受けることになった。
(五) 原告の勤務は、午前八時から一〇時まで蒸工場において、染め上がった生地を検査して折り畳む検反作業に従事し、午前一〇時から午後三時までは染工場において、大城と共にミシン掛け作業に従事し、午後三時から五時まで再び蒸工場において検反作業を行い、午後五時からは染工場での残業従業員に対する夕食の準備を行うというものであった。
(六) 原告は、ほとんど欠勤することなく、蒸工場においては正雄の、染工場においては大本の、それぞれ指示に従い、右各作業やその他の雑役にも従事していた。
(七) 原告の給与は、たまに遅配があったものの、毎月定額が支払われており、これと正雄の給与によって、原告ら家族の生計を賄っていた。
(八) 本件会社においては、一部従業員を除いて残業手当の支給はなく、欠勤しても本給は減額されることはなかった。
(九) 原告は、昭和三九年八月一〇日厚生年金の被保険者に、昭和四七年二月一五日には健康保険の被保険者となり、本件事故当時、いずれの保険料も前記月額一〇万円の給与から控除されていた。
二以上の事実を総合すると、原告は、オートスクリーンの導入に伴って必要となったミシン掛け作業のため、本件会社の経営者成吉の依頼を受けて、昭和五三年から右作業に従事するようになった。勤務時間、勤務場所、勤務内容も一定しており、他の従業員と同様に、蒸工場、染工場の各責任者の指揮監督を受けて作業に従事し、毎月定額の給与の支給を受けている。原告らの家族は、成吉らの家族と別居し、独立して生計を維持していたのであって、単に経営者の家族として、不定期にあるいは臨時的に手伝いをしていたとはいえない。
したがって、原告は、経営者の指揮命令の下に労働力を提供し、賃金を得ていた者であって、労災法上の労働者と認めるのが相当である。
三被告は、原告は成吉との間で労働契約を締結していない旨主張するが、前認定の事実に照らし、少なくとも昭和五三年、原告がミシン掛け作業に従事するに際し、口頭の労働契約が締結されたとみるのが相当である。
また、被告は、原告の賃金が、ミシン掛け作業のみに従事していた大城と同額であるのは不合理であり、労働と対価性がないと主張する。たしかに、原告は、経営者の親族として月額一〇万円の賃金に甘んじていたことがうかがえる(弁論の前趣旨)が、だからといって、前認定事実に照らし、原告の労働と賃金の間に対価関係がないとはいえない。
なお、原告は、成吉の事業専従者として申告されていたことがうかがえる(証人佐藤武博)が、これは税務対策上の措置と認められる(弁論の全趣旨)ので、これをもって、右判断を左右することはできない。
第四結論
原告が、業務上本件事故にあい、本件傷害を負ったことは争いがない。
してみると、原告は、本件事故当時、労災法上の労働者でないとしてなされた本件各不支給処分は、次の部分を除き、いずれも違法であるから、これを取り消すべきである。
そして、本件処分中、昭和五八年一〇月二八日以前の休業補償給付請求権は、労災法四二条所定の二年の経過と被告の時効の援用により、時効消滅している(この点は、原告において明らかに争わない)。
したがって、この部分の不支給処分は、結論において相当であり、その取消を求める原告の請求は理由がない。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官吉川義春 裁判官中村隆次 裁判官佐藤洋幸)